英会話ができなかった日本人がつくり上げた法則

本当にお伝えしたいプロフィール ③.

英語の発音・スピーキング・リスニング・リーディングなどそれぞれにある「何でそうなるのか」がわかるようになると、一気に英語力が上がりました。
しかし、その頃はまだパニック障害が完治していない状況。加えてアルバイトも両立していかなければならず、体調・時間管理が難しく、大学合格はその数年後になりました。

上智大学比較文化学部(現・国際教養学部)

「英語を話すのが目標・目的の大学」ではなく「英語により専門分野を勉強する大学」というのは自分にとってまさに理想的な環境でした。

大学はアメリカ式のカリキュラムだったので「おびただしい量の宿題」が授業の度に出て

「いつ寝られるか」「時間があったら遊ぶより寝たい」

と考える日々が続きました。

しかし、一時はパニック障害により勉強も大学も諦めざるを得なかった僕にとっては、そのような無理しながらでも英語に触れられるのが「喜びと幸せの毎日」でした。

「過酷でも楽しく充実した時間」はあっという間に過ぎてしまいます。大学の卒業が迫ってくると「まだもっと英語に囲まれた環境で自分を高めていきたい」という思が強くなりました。

そんなある日、友人から

横田基地(東京郊外にあるアメリカ空軍基地)に大学院があり日本人が一人もいない

ということを聞きました。
その瞬間、僕はそこに入ることを即決。試験も無事にパスし大学院に進むことができました。

アラバマ州立Troy State University大学院(米軍横田基地内)

基地の大学院での勉強は、「大学の頃のおびただしい量の宿題・勉強量」が「準備運動」に思えるぐらい大変でした。

さらにはその頃は基地の中で仕事もしていたので、大学院と仕事の両立に睡眠時間は毎日3時間前後、少ない時は「5分」という日もありました。
それでもやはり、一時はパニック障害により勉強も大学も諦めざるを得なかった自分が「限界に挑戦しながら英語ができる」ということが嬉しくてたまりませんでした。

基地の大学院のクラスでは、同級生がパイロットや組織の部長・課長級の面々。

授業内のディスカッションでは「英語力より実務経験・知識での圧倒的な差」を感じ、議論の中に割って入り自分の意見を述べるだけで精一杯。

一人、実務経験も乏しい日本人としては、宿題だけでなくディスカッションで話題になりそうなことをできる限り事前に調べ毎回の授業に臨みました。

アメリカ人との大学院生活を通じて個人的に感じたのは

アメリカ人は正解・不正解を気にせずがむしゃらに真正面からトライし続ける人を評価・応援する

ということでした。

宿題(論文)はもちろん、授業への積極参加、プレゼンテーションの積極志願など、できるものはすベてトライする姿にクラスメイトも先生も評価をしてくれたのか、本当に心からのサポートをしてくれました。そして、新たな課題に積極的に挑戦し乗り越える度にいっしょに喜んでくれました。

そしてこの大学院生活を通じ

勉強とはただ知識・ノウハウを身につけるだけでなく、人と人との支え合いの心により成り立つものである

というのを改めて強く感じさせられました。

アメリカ大使館

大学院も卒業し基地で働いて5年が過ぎようとしていたある日、「アメリカ大使館での日本語教師の求人」を見つけました。

実は長年の塾・家庭教師のアルバイトにより

いつかは教師になりたい

という思いをずっと心に抱いており、迷いなくその求人に応募をしました。

結果は幸運にも採用。しかしそこから長い期間限定雇用・試用期間のプロセスを経て、数年後ようやく正式にアメリカ大使館員として働くことができました。

大使館での仕事は非常に充実していました。大使館では一般的な日本語はもちろん、アメリカ人外交官が政治・経済・軍事などのそれぞれの専門分野で扱う日本語を毎日教えていました。

また、「日本人として日本語が当たり前のように使える」のとはまったく違う「日本人だからこそ意識せず考えたこともない日本語の構造・使い方・由来」などを客観的に理解し説明をする経験により、
後から気づいたのですが、おそらく

この経験がなければ現在の英語の教え方はない

といってもいいぐらい、日本語教育により英語で提供できるものが格段に広がりました。

さて、大使館勤務も数年が過ぎ、気づけば自分も中間管理職や会社役員へと進むような年齢にさしかかっていました。

ちょうどその頃、同世代の多くの友人・知人から

英語が話せないのが原因で思うように昇進・転職ができない。

英語が話せる若い社員に追い越されそうで怖い。

という言葉をよく耳にするようになりました。そしてその度に

英語がまったく話せなかった20歳の頃の自分

英語が話せるようになるために一つ一つ法則を積み上げてきた自分

がフラッシュバックし、次第にこのような思いが強くなっていきました。

ここ(大使館)で日本語を教える先生は他にもいる。
でも、20歳の頃から積み上げたあの法則を教えられるのは自分以外いない!


悩んだ末・・・、長年勤務した大使館より独立。スクールを開校しオリジナルの法則の提供を始めました。