20歳の頃から日本で英会話力を身につけた日本人だからこそ教えられる英語
略歴
山内 順雄
・上智大学比較文化学部(現・国際教養学部)卒業
・アラバマ州立Troy State University大学院
・行政学修士課程修了(横田基地内)
・米空軍横田基地勤務
・アメリカ大使館勤務
・日本語教育能力検定試験 合格

研修・講演会・セミナー実績(敬称略)
・板橋区立高島第二中学校
・ たましん法人総合サービスBOB
・ みなとみらい特許事務所
・ 篠原総合法律事務所
・ いつき司法書士事務所
・ エグゼクティブ・サーチ・ジャパン株式会社
・ 株式会社グロウスプロモーション
・ Revon24
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プロフィール
僕も、英語は大好きでどうしてもできるようになりたかった一方で、「自分にはセンスがないから絶対に話せるようにならないだろう」と思いながら諦めきれず英語の勉強をしていました。
ハーフ・クォーター・バイリンガル・留学していたわけでもない、大人になってから試行錯誤により英会話力・英語力を身につけた日本生まれ・育ちの日本人だからこそ教えられる英語の法則。
仕事が忙しくて英語の勉強をする時間がない
どんなに勉強しても全然できるようにならない
今からやってもどうせ無理
と、英会話・英語が思うようにできず悩み苦しまれる方へ、
同じく英会話・英語ができず悩み苦しんだ日本人が
「略歴ではまったく伝わらない本当にお伝えしたいプロフィール」をご紹介させていただければと思います。
このプロフィールが、今なお思うように英会話・英語ができず苦しんでいる方の何か少しでもお役に立てば幸いです。
英語が好きになったきっかけ
小学生の頃、テレビ番組で見たアメリカの日常生活やコミュニケーションの仕方に衝撃を受け「将来、絶対に英語が話せるようになりたい!」と思いました。ところが当時の自分は
そのまま何もせず中学になりました。
待ちに待った中学からの英語の授業
さて、中学生になり待ちに待った英語の授業!
「これで英語が話せるようになる!」という期待はすぐに冷めてしまいました。
「え?何これ?こんなんで英語なんて絶対に話せるようにならない」
- 訳もわからず文法・単語・文章を暗記
- 自分のカタカナ発音をどうすればいいのかわからないままひたすら音読
- 覚えた形に当てはめるだけのパズルのような文法
- 丸や線を書き込みながら行ったり来たりして読み進んでいく長文読解
- 実際に話す英語とは違う試験のための英語・日本の英語
などに「英語が話せる」どころか「絶対に話せるようにはならない」確信の方が強くなっていきました。
でも、「英語そのもの」が好きなのには変わりはなかったので好きで得意な教科にはなっていきました。
人生最大のピンチにより英語が一生のパートナーに
どうしても入りたい大学があったため、高校生の頃は逆に猛勉強の日々で、連日の徹夜と、眠くなるので食べる量も極力抑えて勉強し続ける生活が約2年続きました。そして、高校卒業と同時に倒れ、一時は勉強はおろか呼吸が自然にできない程の状態にまで陥りました。
数ヶ月後、体調が少し回復した時、何よりも真っ先にしたのは「英語の本を開く」ということでした。自分にとって英語がここまで大きな存在であったことに初めて気づき、
英語は自分にとって一生のパートナーになっていくだろう
と感じました。
とうとうアメリカ人と英語を話す日が!ところが・・・
ある日、知人が僕をとあるアメリカ人宅に誘ってくれました。英会話のためその家に週1回通っていたそうで、僕が英語に興味があることを知り声をかけてくれたのです。
アメリカ人と会うのも英会話をするのもまったくの初めてでした。
どれくらい通じるだろう? 英語は好きで得意な教科だったから、40%、30%、せめて20%は通じるかな?
ワクワクが止まらない状態でその日を待ち続け、とうとうその瞬間が!
Hello, my name is Yamauchi…
しかし、その後の言葉が何も出てこない・・・。
さらには、相手が話す英語も「これ英語???」というぐらい、何も聴きとれない。
できたことは、わかったフリをして笑顔でうなずくだけ・・・。
通じたのは、40%、30%、20%どころか、まったくの0%
意気揚々と期待に胸膨らませて行ったわずかその数時間後、落ち込み放心状態で帰りました。
そして、このような言葉が繰り返し繰り返し心に浮かびました。
何で!? 中・高で英語をあれだけ頑張ってきたのに・・・。 今までやってきた英語は一体何だったんだろう???
やっとわかった「英語が話せない原因」
その後も週1回、英会話をしに通い続けましたが、でも一向に話せるようにならない。
何で話せるようにならないんだろう? どうすれば話せるようになるんだろう?
3ヶ月間ずっと考え続けた結果、ある結論に至りました。それは、
「英語 = 勉強」になっているから話せない 「正しい英語」に囚われてしまうから話せない
ということでした。
そしてある日、決心をしました。
よし!今日は文法は絶対に気にせず、思ったことを思った順に話してみよう!
それは自分にとってはある意味、とても勇気がいることでした。
なぜならそれは自分の中では、何年も頑張って積み上げてきた「勉強の英語」を全部捨て去ることになるからでした。
しかし、それぐらいしないと「英語=勉強」「正しい英語」に戻って何も言えなくなってしまう!
最初の一言。話しながら文法の間違いに気づき恥ずかしくて溜まりませんでした。でも敢えて気にしないようにしながらひたすら話し続けました。
すると、驚くことがありました。
話せる! 通じる! 僕の話に笑ってくれる! 僕の話に返してくれる!
その日はいつもよりはるかに話が盛り上がりあっという間に時間が過ぎていきました。そして、
「英語 = 勉強」より「英語 = 言葉」を大切に
「正しい英語」より「伝わる英語」を思いっきり楽しんで話せばいいんだ!
ということ心から確信しました。
また、これが現在の
20歳の頃、英会話力ゼロの自分が一つ一つ積み上げていったオリジナルの法則の原点
になりました。
日本にあった「英語だけで生活ができる場所」
こうなるともう英会話をすることが楽しくてたまらなくなり、「週1回・数時間の英会話」ではなく「毎日・一日中英語を使って過ごせるところ」を探し続けました。
6ヶ月半探し続け、とうとう「上智大学比較文化学部(現・国際教養学部)」というところを見つけました。
ここでは授業で日本語を一切使わず「英語を勉強する」のではなく「英語で専門分野を勉強する」というところでしたが、受験も「英・国・社」のような日本のスタイルではなく、アメリカのシステムだったため「日本の中・高を出た日本人にはまず無理」と言われるようなところでした。
しかしそれを知ったところで他に選択肢はなく、「どうすれば短期間にそのレベルの英語力に到達するか」を考え続けました。
とはいえ、同じ大学を希望する受験生のほとんどは帰国子女・インターナショナルスクールの生徒・留学生。自分のような「日本生まれ日本育ちで英会話少ししかできない人間」には圧倒的な実力の差があり、それを何とかするにはシンプルに「彼らのような英語力」になるしか方法がありません。
そこで以前から疑問に思っていたことに辿り着きました。それは、
- 話せるようになるためにひたすら話す
- 聴けるようになるまでひたすら聴く
ということでした。
これはでは「いつ、どれぐらいできるようになるのか」の見当がつきません。「もっと論理的にスピーキング・リスニングが向上する方法」を考え試し続けました。そして、
発音・文法・スピーキングなどすべてにある「何でそうなるのか」を一つ一つ明らかにしていきました。
すると、それらがいつしか自然に「法則」として体系化していき、一気に英語力が上がりました。
もう一つの壁は「単語」でした。アメリカの試験を受けなければならず、そこには「膨大な数の単語」が立ちはだかりました。
「単語の暗記」は人一倍苦手でした。しかし次の試験から逆算すると「1日に200単語覚えなければならない」という計算になってしまいました。
かえってそのような「不可能な量」がよかったのかもしれません。普通に覚えていたら当然、不可能なので「普通ではない方法」を考えました。
これは自分にとっては「賭け」であり、その方法がうまくいかなければ確実に不合格。
さらにはその頃はまだ体調は完全に回復しておらず、アルバイトと勉強の両立がうまくできず、1年目は出願を見送り、2年目はあと少しのところで不合格。
その時はすでに3年目のトライ。もうそれに賭けるしか方法が残されていませんでした。
幸い「賭け」はうまくいき、ようやく3年目のトライにして大学に入ることができました。
米軍横田基地・アメリカ大使館
大学は自分にとって理想的な環境でしたが楽しい時間はあっという間に過ぎていきます。大学の卒業も迫り「まだもっと英語を極めていきたい」と思っていたある日、友人から「横田基地(東京郊外にあるアメリカ空軍基地)に大学院があり日本人が一人もいない」ということを聞いた瞬間、そこに入ることを決めました。
基地の大学院は、大学の勉強が準備運動に思えるぐらい大変でしたが、「基地の中で働き大学院にも通える」という「体調を崩していた頃には絶対にできなかったことができている」ということが嬉しくてたまりませんでした。
基地の大学院で勉強をし働いて5年が過ぎようとしている頃、アメリカ大使館で日本語教師の求人を見つけました。
実は長年の塾・家庭教師のアルバイトにより「いつかは教師になりたい」という思いを心に抱いてい自分は迷いなくその仕事を選びました。
採用までのプロセスはかなり大変でしたが期間限定雇用の試用期間を何度か経てようやく正規のアメリカ大使館員として働くことができました。
独立・スクールの開校
大使館で日本語を教え数年が過ぎた頃、気づけば自分も一般的には「中間管理職から会社役員へと進むような年齢」にさしかかっていました。
するとちょうどその頃、同世代の多くの友人・知人から
英語が話せないのがネックになり、思うようにステップアップ・昇進・転職ができない。
英語が話せる若い社員に越されるかもしれないと思うと怖い。
という言葉をよく耳にするようになりました。また、その度に
- 英語がまったく話せなかった20歳の頃の自分
- 英語が話せるようになるために一つ一つ法則を積み上げていった自分
がフラッシュバックしました。
そして次第に
ここ(大使館)で日本語を教える先生は他にもいる。でも、20歳の頃から積み上げたあの法則を教えられるのは自分以外いない!
という思いが強くなっていき、悩んだ末、長年働いた大使館を辞め独立しスクールを開校。オリジナルの法則の提供を始めました。
英会話ができなかった日本人がつくり上げた法則
この法則は
勉強しない、できない、大嫌いな小学生が
中・高で日本特有の「勉強英語」を積み上げ
20歳の頃、英会話力ゼロの状態から日本だけで
「何でそうなるのか」を一つ一つ考えながら積み上げたもの
つまり、「思うように英会話ができなかった日本人の体験談・集大成」のようなものです。
ですから当然、
日本の中・高で英語を勉強してきた日本人に共通する「英語の盲点」
も実際の経験を通じ理解しています。
さらには、ハーフ・クォーター・バイリンガル・留学していつの間にか英語が話せたわけではなく、大人になってから試行錯誤により身につけたので、
「英語ができず悩み苦しむ気持ち」や「スランプになりやすいポイント」
も理解できます。
このように、英会話がまったくできなかった日本人がつくりからこそ、この法則は英語の技術的な面だけでなく気持ちの面でも
今もなお思うように英会話・英語ができず苦しんでいる方にとっての大きな希望になる
と信じております。
伝わる英語・自分の言葉
最後に、自らの経験でもあったこととしては、英語を身につけようと必死になっているといつの間にか
「英語が話せること」が最大の目標になってしまいがちです。
しかし、一番大切なのは、
英語の先にあるもの
です。
英語が話せると日本では「能力」として評価されますが、英語圏に入ればそれは「当たり前のこと」です。
英語圏では「英語が話せること」ではなく「英語により、何が伝えられるか」が大切です。
いくら英語ができても「伝える中身」がなければ喜ばれるのは最初だけです。
ビジネスでも留学でもプライベートでもどんなときでも
「技術・知識・考え」など「自分の中にあるもの・自分にしかないもの」
に対して、相手は喜び評価し信頼を寄せてくれます。
「英語を話すこと」ではなく、自分にあるものを「英語で話す」ということが大切な価値観になることにより、「正しい英語」「間違い」はいつの間にかまったく気にならなくなり、「伝えること・伝わること」がどんどん楽しくなり機会も広がり将来も変わります。
また、そうすれば「英語」は「自分にとってかけがえのない一生のパートナー」になっていくのではないかと思います。